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2019-06-21
思うとは、行為というより、出来事であること
ニーチェとマッハには双生児のように似た発言があるとして、木田元が『マッハとニーチェ――世紀転換期思想史』であげている例。ともにデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を踏まえたもので、ひとつはニーチェが『善悪の彼岸』で言っているもの。

論理学者たちの迷信について言うならば、私はこれらの迷信家たちが認めたがらない一つの簡単な事実を、飽きずに、繰りかえし強調するつもりだ。――それはつまり、思想というものは、〈その思想〉が欲するときにやってくるのであって、〈われ〉が欲するときにやってくるのではない、ということだ。したがって、主語〈われ〉が述語〈思う〉の条件であるというのは、ある事実の偽造である。それは思う……はいいとして、しかしこのそれこそまさにあの古く有名な〈われ〉にほかならないとするのは、おだやかな言い方をしても、一つの仮説、一つの主張であるにすぎず、いわんや〈直接的確実性〉などではない。

マッハについては、彼が『感覚の分析』で引用しているリヒテンベルクの言。

閃く(es blitztエス・ブリツツト)と言うのと同様、思う(es denktエス・デンクト)と言うべきであろう。コギトということは、われ思う(Ich denkeイッヒ・デンケ)と訳すや過大となる。われを仮定し要請するのは実用上の必要にすぎないのである。

両者に共通しているのは、「思う」の主語を「われ」とするのは仮定的・便宜的なものにすぎないということ。
「われ」が「思う」のではなく、「われ」とは別の何者かが「思う」のである。
es denkt は英語では it thinks。「雨が降る」が it rains であるように、「思う」の場合も I think より it thinks が実相だろうと二人は言っている。