事実を真実で置き換えること
パリが解放された夜のこと、ジャン・コクトーはパレ=ロワイヤルの友人の家でラジオに聴きいった。ラジオの声は哲学者のジャック・マリタン。彼はニューヨークのスタジオからパリにいるフランス人の現状を語っていた。
事実の真実による置き換えとでもいうか。
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マタリンが描き出す光景はわたしたちの本当の姿とは似ていなかった。マリタンはわたしたちの姿を美化して、わたしたちにまでそれを信じ込ませようとしていた。そしてマリタンは正しかったのだ。ニューヨークはあれよあれよという間に歴史的真実をわたしたちの真実と入れかえてしまった。バスチーユ奪取についても同じである。あれは語り伝えられているほどのものではないし(チュイルリー宮占領に比べればたいしたことではない)、だいいちルイ十六世にしたところで、いずれギロチン大通りになるアラゴ大通り近くの、現在はメシャン街があるあたりで兎狩をしていて、そんなことは知らなかったのだ。それなのにわたしたちは性懲りもなくバスチーユ奪取を祝いつづけている。 ――鷲見洋一訳「作り話がすぐれていること」
事実の真実による置き換えとでもいうか。
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