2022.7.6 wed. url
村人です。
人馬一体。
他の人々の自然。
舌を欲しがり、村を作るために瞑想する。
唾を吐く。
done 2022.7.10 に吸収
2022.7.5 tue. url
一枚の絨毯が、絨毯が、物語が、護る者が何人もいる。
海はただ要求しているだけだった。
赤はその問題を収容することができ、彼らは彼らの土地を奪うことができる毛を持つ当然のことながら、外に出ることができます。
赤の彼は人々を。
絨毯一枚の貿易がはじまり、彼らはその絨毯一枚の尾根をかすめ取り、絨毯一枚だけが思わぬ需要を生む。
短剣を抜いた土地の一片。
数里の間、彼らの上にある一片。
数里の辺境に来ただけで、一枚。
交易をした。
一枚だけ二人分。
これらの問題が出ていたのを認める。
赤の駒が言い出した。
貿易の幅が広いので、何も考えずに数百のために、大将が数百人分、
守備についた将軍を彼らが寝かせる。
辺境の浜の無言交易?
収容できるのは絨毯だけで、絨毯は私たちだけだったのですが、予想外の赤い駒。
前半を整理、後半を切り捨てて、done
絨毯交易|mataji|note
2022.7.3 sun. url #列子
楊朱の弟を楊布といった。
白い服を着て出かけた。
雨が降った。
白い服を黒い服に着替えて帰った。
犬が気づかず、吠えて迎えた。
楊布は怒って、ムチで打とうとした。
楊朱が言った。
打ってはいけない。
おまえだって同じだろう、
出かけるときは白かったおまえの犬が、
黒くなって帰ってきたら、
怪しまずにはいられまい。
楊朱之弟曰布。衣素衣而出。天雨。解素衣、衣緇衣而反。其狗不知、迎而吠之。楊布怒將扑之。楊朱曰、子無扑矣。子亦猶是也。嚮者使汝狗白而往。黑而來、豈能無怪哉。――『列子』説符第八
センテンスの論理的関係を示す接続詞がない。
「而」は出来事の順序を示すのみ。
『列子』に限らないが、漢文の動詞には時制がない。
能動か受動かも文脈による。
ある語が動詞か名詞かも文脈しだい。
2022.7.2 sat. url #ヘンリー・ミラー
ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)のうち「支那を漫歩する」から。
語り手はパリにいる。パリはフランスにあり、フランスは中国なのだという。
わたしはアメリカ大陸に生まれたので、世界のどこかに人間でいられる場所があるなどということは信じられなかった。わたしはやむを得ず、支那人になった。――自分の国にいて、そして、支那人なのである。わたしは、自分とはなんの関係もない醜悪な人生に立ち向かうために、阿片を飲むかわりに夢想に耽った。ミシシッピー河に小枝が落ちるのと同じくらい静かに、自然に、わたしはアメリカ人の生活から脱落した。
わたしは自分の国のことばを忘れてしまって、そしてまだ新しいことばが話せるところまでいっていない。わたしは支那にいて、支那語を話す。わたしは、変わりつつある現実の中心にいて、まだそのための国語は作られていない。地図によれば、わたしはパリにいて、暦では、現在は二十世紀の三十年代ということになっている。しかしわたしはパリにいるのでもないし、いまは二十世紀でもないのだ。わたしは支那にいて、ここには時計も暦もない。わたしは荷船に乗って揚子江を遡っていて、食物はアメリカの砲艦が捨てたごみの中から拾い集める。
最後の段落で語り手の正体が明かされる。
これが海綿を口にあてられて、蛙が踊っているときにイエスが歌った春なのだ。
2022.7.1 fri. url #ヘンリー・ミラー #荘子
もし他人の笑うときに笑い、他人の泣くときに泣いていたら、結局は、他人の死ぬように死に、他人の生きるように生きなければならなくなるだろう。ということは、自分を正常な人間にしようとして、それに負けることである。生きているあいだ死んでいること、死んだときしか生きられないことを意味する。そのような人間社会のなかでは、世の中はいつも、たとえ最も異常な状態にあっても、正常な様相を帯びる。ものごとはすべて、それ自体正しいわけでも正しくないわけでもなく、ただ考えかたによってそうなるだけの話である。
ヘンリー・ミラー『南回帰線』(大久保康雄訳)
『荘子』斉物論篇に、「まさに生ずればまさに死し、まさに死すればまさに生ず」、また「彼もまた一是非、此れもまた一是非」とあり。時空を越えた共鳴というか、あるいはミラーが『荘子』を下敷きに?
2022.6.30 thu. url
辰巳、あの人が?
というのも、辰巳の賭けは衝撃的だったから。
done
辰巳、あの人が?|mataji|note
2022.6.29 wed. url #武田泰淳
未来のことが予知できたら、人はどう行動するか。
未来を読んで、それに従って最善の策を講じたとしたら、それは自分が読んだ未来を書き換えることになるのではないか。
盗賊上がりの第二夫人がいる。
第一夫人は第二夫人を「姉」として慕い、信頼もしている。
彼らの夫・安氏は、かつて旅先で盗賊に襲われたことがあり、それを助けたのが「女賊」の第二夫人だった。その縁で第二夫人は安家に嫁ぎ、今は第一夫人ともども男子に恵まれ、安氏も若くして県長に出世、という何不足ないかに見えた境遇のなかで、次第に暗さを増す第二夫人の瞳――というのが武田泰淳の短編「女賊の哲学」の初期設定。
以後はネタバレの連続になってしまうので、最初のバレごとをひとつだけ。――
安氏の統治する県城が白蓮教の反乱軍に取り囲まれる。
長引く攻防戦で疲弊する県城。
「城内の者たちの命を救うことはできないか」
そうたずねる第一夫人に、第二夫人は、
「ひとつだけ方法がある」
と応じ、その夜、夫の寝室を訪れて彼の首を切り落とすと、その首に県の地図と城民の戸籍簿を添えて反乱軍の陣営を訪れる。
2022.6.28 tue. url #荘子 #ヘンリー・ミラー #武田泰淳 #自由
『荘子』と『南回帰線』に共通のもの。
もしかすると、あらゆる文学は同じものを目指してるのではないか。
そんなはずはないとも思うが、ありそうにも思う。
というより、言語活動一般か。
『荘子』において問われているのは、過去の出来事に対する悲しみの道徳を退け、未来の出来事に対する「喜びの倫理」に向かう自由ということになる――中島隆博『荘子の哲学』
出発! すべての、あらかじめ定められたものをきわめつくすために――武田泰淳「女賊の哲学」
2022.6.27 mon. url #壁抜け #荘子 #ドゥルーズ #ヘンリー・ミラー
ドゥルーズが『千のプラトー』で下敷きにし、中島隆博が『荘子の哲学』で孫引きした中国人のイメージはヘンリー・ミラー由来。
長いあいだ奈落のふちで体のバランスをとりつづけていると、ついにはそれに熟練してくる。どっちへ押されても、しゃんと立っていられるようになる。こうして、恒常的な均衡状態のなかにいると、おそろしく陽気になる。いわば不自然な明朗快活さを身につけるようになるのだ。現在の世界には、以上の論旨をよく理解してくいる人種が、二つある――ユダヤ人と中国人である。
大久保康雄訳『南回帰線』
キリストの復活についてもミラー由来。
ある意味では、ある深い意味でいえば、キリストは、その袋小路から全然押し出されなかった。彼が、よろめきながらふらふらと外へ出ようとした瞬間、その否定の逆流は、まるで大きな反動で巻き返されでもしたように彼の死に待ったをかけたのである。人間の否定的な全衝動が、人間の完全体を創り出すために凝結して、奇怪な不活発なかたまりになり、まとまった一人の人間の姿を生んだものらしい。復活ということも、人間はつねに自己の運命を否定しようとしている事実を認めなければ、説明のつかないことである。
同前
キリストと中国人を喩えにミラーが言うには、もし人が十字架にかかることなく生命を保ち、絶望と無能感を超越して生きながらえたならば、そのような人は、
中国人のように、異常な人生を送ることになるのである。いわば、不自然に快活で、不自然に健康で、不自然に冷淡にならざるをえないだろう。悲劇感は消え、花や岩や木のように生き、自然と戦いながら、しかも同時に、自然とともに生きるようになるのである。たとえ、最も親しい友人が死んでも、その葬式へ行こうとはしないだろうし、目の前で誰かが電車にひかれても、知らぬ顔で行きすぎるだろう。戦争が起きれば、友人たちを戦場へ送り出すことはしても、自分自身は、そんな殺生なことには、なんら興味をもとうとしないだろう。すべてが、そういうぐあいになるのである。人生は一種の見世物になってしまうだろう。
同前
親しい友人が死んでも云々は、『荘子』大宗師篇に描かれた孟孫才を思わせる。ミラーが『荘子』を読んでいたとは思えないが。
孟孫才は、母親が死んだ時、泣く仕草はしたが涙は流さず、心から悼まず、喪に服していながら悲しみもしなかった。そんな誠実さを欠いた振る舞いにもかかわらず、『荘子』は孔子と顔回を登場させて、孟孫才の服喪を称揚させている。
関連記事: 2022.4.23
2022.6.26 sun. url #壁抜け
壁抜け男|mataji|note
後半、書き足りない。
それは措いてだが、なぜメキシコか。トランプの壁でも意識 or 無意識してたのか。
だとすると、書き足す場合、社会問題、政治問題の方向に行きそう。
社会問題、政治問題を忌避する気持ちがある。
現実の政治や社会のことを考えはじめると腹が立って、おさまらない。それが忌避したい理由のひとつ。
それって俺の問題ではない、皆さんの問題だろう、というのがその2。
社会や政治のことを言葉にすると、自分が正義の人になってしまう、気持ち悪い。これも理由。いや、これが 理由だな。突き詰めると、これ。
2022.6.25 sat. url #引用 #盗用 #出典
出典の明記について。
学問の世界は別として、出典はできるだけ示さないほうがいい。
出典を示すと、一方では知ったかぶりと思われ、他方ではそんなことにまで人の名を隠れ蓑にするのか、と。
天才は盗むと言ったのはピカソではなかったか。
盗め、どうして盗まないのだ、とバロウズはどこかで言っていた。
――――
そのような、自分自身の掃き溜めになるようなもの。
私は期待する、鏡の上の窓が忘れられた停止。
私は風。
足音は騒音として耳に響き、孤立し、さらに私は、彼のカートに入りこむ。
もっと風を。
私が風の窓を感じる。
その風の向こうの風がないように|mataji|note
伴奏の問題
2022.6.23 thu. url #夢
きのうの夢、旅先で道士と知り合ったことなどから始まって、かなり長かったはず。
が、ほとんど思い出せない。
夢のリアリティを伝えるには要具体性、薬の名前なども役立ったと思うが、メモしそこなう。
夢のストーリーの開始を確定できるか。
できないだろう。夢の始まりは夢からさめて(あるいは、夢の中でこれは夢だと意識しつつ)思い出すものだから、その限りで思い出せるあたりを夢の始まりと考えるしかない。
とはいえ、無限の過去から始まったものでない以上、どこかに始まりがあるはず。
自分が夢の中に湧いて出るといったようなことか。ならば、ぼんやり始まったというしかない。
逆か。自分の中に夢が湧いて出るのか。
2022.6.22 wed. url #壁抜け #夢
道士からもらった薬を飲むと障子を通り抜けられるようになった。――
という壁抜け術のバリエーション的な話が『聊斎志異』にあるのをみつけた夢。
薬の名前がローマ字で書いてある。
17世紀の中国の書になぜローマ字が混じってるのか。
訳者の注などから思うに、中国に滞在したキリスト教宣教師とのコラボレーションから生まれた小話だったのだろう。
いったん目がさめて、続きの夢。
障子を通り抜ける話が『聊斎志異』の別の箇所にもあり、薬の名がローマ字ではなく漢字で書かれている。
訳者が言うに、こちらが本来の形だろうと。
――――
水生動物保管箱
陸生動物保管箱
人間は陸生だから後者の保管箱
それにしても、私は高名な計算機科学者だったのか
あるいは、ただの狂人だったか
ただの?
done
われわれのうち、どれが本物のわれわれか|mataji|note
2022.6.19 sun. url
外 on Twitter
2022.6.18 sat. url #荘子
ドブネズミはタビネズミより体温調整の能力が低い。
にもかかわらず、ドブネズミはタビネズミの分布する極北地域にも生息し、冬は人家に入って生きている。ドブネズミの生理的限界の狭さは生活の妨げになっていない。 ref: 2022.6.16
――――
我々は時代遅れのテーブル、バー、仕切り席、台所、浴室の
人間をやっつけに来た
敵意のあるハエ
昆虫の盲目的な冷静さを思わせるハエ
すべすべした銅色の顔をしたハエ
誰がいつ部屋に入ってくるかわからないハエ目の昆虫
done
合成都市――人間とハエの|mataji|note
――――
ドゥルーズは、定冠詞で指示されるような固有性を有した個体性は、クロノロジックに捉える叙法や時制を要求すると述べる。しかし、それと異なり、不定冠詞で指示されるような「このあるもの」の個体性は、変化という運動の中で不定の「これ」として成立するために、不定法という時制で表される時を要求する。それは、出来事が生じる生成変化のモーメント(力=契機=時)なのだ。
中島隆博『荘子の哲学』
――――
自我も相対的に恒常的であること by マッハ
ref: 2021.4.11記事
2022.6.17 fri. url
学徒誕生 154
ニジェール流域の骨頂の丸木小屋から
商売の神がよろけ出て
お若いの、あんたを待ってた
流域のここでおまえさんを一人前の商人に仕立てて
町へ送り返してやる
そのような経済理論
2022.6.16 thu. url
ケベックの浜で尿毒症のために死にかけてるタビネズミ
おい、と声をかける
タビネズミなのか確かめる
そうだという
たった一匹でか
そうだという
カナダのツンドラ地帯におけるタビネズミの個体数の変動について
雪の下と地表とのあいだに坑道をつくって生活するタビネズミにとって、雪の少ない寒い冬は生活条件として悪く、おれたちタビネズミよりドブネズミのほうが進化してるのに、われわれを常食とする肉食動物が大きな影響を受ける、見わたすかぎりどこまで這っても後退することのない浜
こんなところでか
そうなのだという
done
見わたすかぎりどこまで這っても|mataji|note
2022.6.15 wed. url #壁抜け #列子
『列子』にある別の壁抜け男のこと。
晋の趙襄子が大掛かりな焼き狩りをしたときのこと、石の壁から出てきて火煙の中を行ったり来たりする人物がいた。趙襄子が呼び止めて、
「おまえはどんな方法で岩の中にいたり、火の中に出てきたりするのか」
と訊くと、
「岩とは何でしょう、火とは何でしょう」
と男がいう。そこで趙襄子が、
「おまえがさっき出てきたところが石で、くぐってきたのが火の中だ」
と教えると、男が言うに、
「まるで知りませんでした」
のちにこの話を聞いた魏の文侯が師の子夏にたずねると、
「和の徳を得た者は万物に同化するから、金石をくぐったり水火を踏み歩くこともできるのです」
と子夏の答え。
2022.6.14 tue. url #デュシャン
見わたすかぎり人造人間の群
影が薄い
影が?
本体は頑丈にできてるが、影は薄かったり、隙間があったり
いいけどな、どうせ人造だし
2022.6.17 done
影は薄かったり、隙間があったり|mataji|note
――――
Home | Duchamp Research Portal
デュシャンの巨大ポータルサイトが誕生。約2万点の関連資料や作品を公開|美術手帖
フィラデルフィア美術館、ポンピドゥー・センター、マルセル・デュシャン協会が共同で
2022.6.13 mon. url
人が自分の首を両手で捧げてやってくる。
そういう光景はこれまでも絵画資料などで見たことがあるが、
それが人間の首ではないとしたら?
牛の首だったら?
頼朝「そこまでやらなくていい!! やめろ、人間は人間でいいのだ」
義経「いえ、兄さん。どうせ人は牛ですから」
done note.comに投稿
牛首考|mataji|note
2022.6.12 sun. url
どう考えても悪夢だが。
晋侯、楚子と搏 ( く ) むを夢む。楚子は己を伏せて、その脳を監 ( す ) う――
春秋時代のこと。晋侯は楚子と組み打ちをしている夢を見た。晋国と楚国が敵対していたから見た夢だが、その中で晋侯は楚子に組み伏せられ、脳みそを吸われてしまった。気味悪い夢である。これが予知夢なら、いや、予知夢に違いない、楚と戦えば負けるという夢である。
ところが部下の子犯は、この夢を別様に解釈した。
下になることは天を仰ぐことを意味する。すなわち、晋侯が天帝の意を受け、逆に背を向けた楚子は罪を得ることになる。また、楚子が脳を吸ったことは、身体がふやけて国が弱体化することを意味する。――これが子犯の解釈で、その後、彼の予想したとおり晋楚の戦いは晋の勝利に帰した。
はたして、晋侯の夢は予知夢だったのか。
夢の時点で、まだ晋楚の戦いの結果は出ていない。戦いが晋の勝利で終わり、そこからさかのぼって予知夢とされたのである。
では、晋が負けていたらどうなったか。
その場合もやはり、晋侯の察したとおりの結果になったとして、夢は予知夢だったことになるだろう。
結果がどちらに転ぼうと、夢は当たったことになる。それが予知夢というものの実際。
予知夢なんて馬鹿らしい、と言いたいのではない。
結果から過去を評価することの是非。
勝った者が善、負けた者は不善(ないし悪)とする歴史観と予知夢の考え方の共通点。
2022.6.11 sat. url #壁抜け
きのうの続き。
火・水・木・金・土の五行説で「西」が「金」に対応していること
同じく「皮毛」(=革?)が「金」に対応していること
――五行思想 - Wikipedia
これらのことから、幻術師が西からやってくる理由を説明しているのだとしたら、五行説が信じられていた時代ならともかく、今となっては面白いものではない。
古代中国における西とは異域のこと。具体的には、ペルシャ、インド。
そちら方面から怪しげなやつがやって来た、という事実めいたところだけ見ておきたい。
中國的變戲法(又稱幻術、魔術)到底起於何時,已難考證。《列子·周穆王篇》載:“周穆王時,西極之國有化人來,入水火,貫金石,反山川,移城邑;乘虛不墜,能實不礙。千變萬化,不可窮極。”唐代雜技和幻術空前繁榮,幻術節目中的“走火術”、“種瓜”、“植樹”,不但流行於本土,而且還傳入了日本。
鵝幻彙編_百度百科
上は、先日(5月21日)の記事でも引用した「百度百科」の一節。
唐代には幻術が大流行した。そのうちでも代表的な走火術、種瓜、植樹は、日本にも伝わったとあり。ここに書かれてることが事実としてだが、幻術そのものが日本に伝わったのか、それとも幻術譚が伝わったのか。後者だろう。
――――
ポレポレ東中野 on Twitter
2022.6.10 fri. url #壁抜け
西方主金,金為從革,故化人之來必自西極也。――
なぜ幻術師は西の果からやってくるのか。
その理由が「西方主金,金為從革」なのだろうが、漢和辞典をめくってるだけでは解けそうもない。
2022.6.9 thu. url #壁抜け
少なからぬ日本人にとって、漢文は学習コストの最も小さい外国語ではないか。
千年、二千年前の文章でも、全体の9割がたは知ってる文字で構成されている。難しさのほとんどは教養に関するものであって、文法的に難解なのではない。
名詞の格変化もなければ、動詞の時制もない。その点では現代日本語よりやさしい。
漢和辞典を引きまくれば、とくに勉強しなくてもかなりの程度まで理解できるのではないか。――
と、安易にまとめてみたが、現実はそうもいかない。
宿題。次の文を訳せ。
方外之與方內,其不相及亦遠矣。穆王,方之內者也;化人,方之外者也。西方主金,金為從革,故化人之來必自西極也。物本非有身,原太虛化人造物之主也,六合所不能拘,五行所不能役,故可以撮乾坤于黍米之中,促劫運于須臾之內,綽綽然猶有餘地,至于入水火,貫金石,反山川,移城邑,變物之形,易人之慮,皆平常閑事爾。
沖虛至德真經解 : 卷五 穆王上 - Chinese Text Project