zakki no.24

[2022.7.7 - 2022.8.6]

2022.8.6 sat. link

そして…ああ
泣けば死ぬし
緑を叫ぶ
そして、十個運ぶと緑を運ぶ…ああ
偶数月は後日見る、見るべき時に見るように

そこでは、すべてのものが、蝶の飢餓のように、より多くを持っているように、すべてのものが、より多くを持っています。
そして、食べるということ。
蟻は自分の食べ物を自分の体で持っていて、食べものを運ぶ。
蟻の困難は、蟻の羽のようなものである。
そして、蟻が翔ぶとき、蟻は多くの種類に分かれている。
そして、自分の体で、最後に死ぬ。
昆虫になる。

そして、もし彼らの翼。
そして、その時、彼らは怠惰な…
そして、もしそうであるべきなら…
しかし、彼ら自身の食べ物。
そして、彼らが嘆くとき、彼は彼らの昆虫。

done 昆虫になる|mataji|note

2022.8.5 fri. link

米国疾病予防管理センター(CDC)が集計した、2019年~2020年のデータによると、若年層(1歳から19歳)の死因のトップは、交通事故を越え、初めて銃関連(殺人・自殺・事故)になったという。
また銃乱射事件は、2022年に入って145日(約5カ月間)で199件に及び、1日1件以上、週平均10件発生している。
アメリカの銃乱射事件が止まらない。2022年に入って145日で199件発生、1日1件以上 : カラパイア
銃関連事件の被害を防ぐには、個人、家庭、学校など、それぞれのレベルで防御手段・反撃手段を強化するしかない。負の効果として銃関連事件の増加がありうるが、さらに防御・反撃手段を強化することで抑制できる。その場合の負の効果として銃関連事件の増加がありうるが、……以下循環。

歴史とは愚行録ではないか。

戦場で人は馬鹿面になる

2022.8.4 thu. link #夏目漱石

夏目漱石『草枕』の一場面。
山間の宿に逗留している画家の部屋に、宿の娘が入ってくる。画家が本を読んでいるのを見て、何を読んでるのかときく。
画家はわからないと答え、本を適当に開いて前後の筋に関係なく読むのが自分の読み方なのだと言う。
「筋なんかどうでもいい。こうして、おみくじを引くように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでるのがおもしろい」

これが漱石自身の読書法なのか、それともこの画家用に設定した読書法なのか。
どちらでもかまわないが、これを自分の読書法として決めたいと思う。
本屋で本を買う。買う前にぱらぱらめくってみて、面白そうだから買う。家に帰って読んでみると、本屋で読んで面白く思ったところが、やはり面白い。それはいいのだが、その箇所を超える面白さには出会わない。
ということは、本屋での立ち読み段階で自分の読書は完了していたと考えていいのではないか。そういう経験がしばしばある。

本は拾い読み。
それでいい。

『草枕』のことは、『読んでない本について堂々と語る方法』で知った。
それで今日、青空文庫で読んでみた。間引き読みで。
漱石や『読んでない本について――』の著者がこの読書法に託したものと、自分がこの読書法を自身のデフォルトとして採用しようとすることの間には方向の違いはあるだろうが、『読んでない本について――』を読んだ最大の収穫がこれ。立ち読み段階での収穫ではないから、デフォルトからは外れてるのだが。

2022.8.3 wed. link

何もかも同じではないか。
そんな気になってる。
いや、何もかもではないとも思う、夢の中で。
何もかもではなく、世界の半分が同じで、あとの半分が違うのではないか。とはいっても、それぞれの半分のイメージはおぼろで、雲のかたまりといった程度の不確かさ。
何もかも同じなどということはありえない。
判断力というか、認識力というか、狂いかけているのでは。

2022.8.2 tue. link #天の川 #フランクリン #ウェーバー

天の川という課題。
これは、銀河の中にある矩形とそこにあるインターン中の数 understars を一緒に収集し、私であるべきですが、信者は、、、すべきです。
私たちの星は、私たちの知っている星にそって、その方向のどの断面にも、すべての帯状の事実があり、平らで入り込めない。目に見える事実の源が、方向がわかる、その台は、私のような薄い顕著な数は、長かったが小さかったのです。このように、私たちが想像しているものは、すべてそうであっても、少しずつ減っていくのであり、それは、銀河の中に詰め込まれた事実の中にある疑問だけを突きつけることになる。
それは、この目的の想像のわびしさです。

星屑が禁止天文台になる。
この可視の厳しさ、星による想像の平坦さを問うものであり、Questial Report についてであっても、惨い事実の増加や視線の増加や光線化には及ばない。
あるものは疑問の事実を、あるものはこの上を、あるものは愛嬌のある川越にある星屑を取り込まないことを、より良いものにするためにあるものを反応に知ることになるのです。

そんな天の川の薄い面を味方につけること。

done そんな天の川の薄い面を味方に|mataji|note
――――
時間は貨幣だということを忘れてはいけない。
信用は貨幣だということを忘れてはいけない。
貨幣は繁殖し子を生むものだということを忘れてはいけない。
1匹の親豚を殺せば、それから生まれてくる子豚を1000代までも殺し尽くすことになる。5シリングの貨幣を殺せば、その5シリングが生みえた一切の貨幣を殺し尽くすことになる。 ベンジャミン・フランクリン
フランクリンの道徳的訓戒はすべて、正直は信用を生むから有益だ、時間の正確や勤勉・節約もそうだ、ゆえにそれらは善徳だというふうに、功利的な傾向を持っている。フランクリンに従えば、あらゆる善徳はただそれが各人にとって実際に有益である限りにおいて善徳であるにすぎず、たんなる外観が同一の効果を生むとすれば、その外観を代用するだけで十分だ、ということになる。 マックス・ウェーバー
このように言ったあとでウェーバーは急いで付け加える、「事実は決してそう単純ではない」と。余計な追記と言いたいが、ここからがウェーバーであり、読者の喜ぶところでもあるのだろう。

2022.8.1 mon. link #野口武彦

どうせ歴史は落丁だらけである。だとしたら、歴史の意図的な乱丁をもってそれと拮抗してどこが悪いというのか。 野口武彦「歴史の落丁と物語の乱丁」(『秋成幻戯』所収)
乱丁をバロウズの用語で言えばフォールドイン、またはカットアップ。
荘子とか、生成変化とか、テーマも方法もそんな方向で収束させたいと思っていたが、ダダ、シュールレアリズム、カットアップ、どれも同じことではないか。野口のいう「意図的な乱丁」も。20世紀の実験小説も、実験演劇も、水木漫画の妖怪も、ピカソも。
ということは、発散に向けて収斂ということ。
書店でピエール・バイヤール『読んでない本について堂々と語る方法』を入手。これも同類か、発散に向けて収斂。

あらゆることがすべて同じものに見えてきたが。

2022.7.31 sun. link

鬼太郎さんに口止めされていたのよ
まあ
誰にも言ってはいけないって
まあ
息の根も止めてやるのだ
――――
重力因と時間因
重力因――地表からの距離による疾病の分類
時間因――現時点からの距離による分類
忘れられた過去と既知の未来
どうする?
どうするって…
マーケットを行く葬列
重力と時間の交わる角度について
nlp.146

done 重力と時間の交わる角度について|mataji|note
――――
三人目の指が誰の指か
どんな感覚も渾身の力で危険なサイクロン
アンデルセンの操縦索、操縦桿
他人の手も同前の麻痺
現れる四人目の指
こんなところに銃眼
脱出策は?
cb11.350

2022.7.30 sat. link

拾い読み可、いや、拾い読みのみ
誤読でかまわない

イベントオーソライズドな夕べ
対して夜明けの舞踏会
テーパードの別荘、彼らの妻帯者
天衣無縫の上野
幾曲がりもする街角
人間の政府
そのような世界のない者は、追っ手によって唯一のストラナミ

雪の玉手箱に、人間とは何か

2022.7.29 fri. link

人々の記憶に残る...
オーギュスト・ペロー氏は昼前に散歩に出かけた。
半世紀以上経った今、彼はどんな人になっているのだろう。
連れ去られた彼の居場所を知りたい。
そして、そのようなテキストを送りつづけた。
彼がどこにいるのか、そして彼がさらわれたことを知りたいのです。
ゆったりとした、明るく暑い一日。
季節の変わり目は、インディアンサマーと呼ばれる。
偶然にも、私たちも
半世紀以上経った今、彼はどんな人になっているのだろう。

遠く離れた古代インドへ。
オーギュスト・ペロー氏は昼前に散歩に出かけた。
人々の記憶に残る...
今どこにいるのか、どんな人なのか知りたい。
偶然にも、私たちもそうです。
彼がどこにいるのか、そして彼が連れ去られたことを知りたいのです。
どこにいるのか知りたい、連れて行かれたんだ。
人々の記憶に残る...
軽やかで明るく、暑い日。
たまたま、私たちもそうでした。
今思えばインディアンサマーでしたね、私たちにも。

2022.8.26 done
インディアンサマー|mataji|note

[追記]
推敲や改作によって、誰が見ても明らかなほどに作品を劣化させてしまうこと。
本人だけ気づいてない。改良と思い込んでいる。
上の「インディアンサマー」がその例。戒めのため残しておく。

旧作: 2023.8.13記事
――――
Watanabe on Twitter

2022.7.28 thu. link #資本主義 #フランクリン #ボードレール #避雷針

原題は Something Wicked This Way Comes
やってきたのが資本主義だとしたら

資本主義者ではなく資本主義そのものの寓意像である Something Wicked
その Wicked なやつは避雷針売りであることによって怪しい
なぜなら、避雷針を発明したのがフランクリンだから
以後、避雷針売りは必ず詐欺師であること
発明物に発明者の心が宿る
他の何よりも金銭に価値を置く、それが資本主義
ところが…

Wicked な気配を湛えてやってきた避雷針売りは、ウィルとジムの二人の少年からカネを取るかわりに、ただで避雷針を置いて立ち去る
何のための避雷針売りなのだ、おまえを資本主義を体現する者ではないのか

フランクリンが卑劣な人物であることは、ボードレールが確かなやり方で述べている

主な人物たちは、倦怠と憂愁メランコリーの境に達したドン・ジュアン、――その家僕の長あるいは差配人、レポレロとかスガナレルとかいうのとは違うものにしたいが、冷たくて、分別があり平凡で、絶えず美徳と経済のことばかり口にしている人物。好んでこの二つの観念を結びつける。――フランクリン流の知性みたいなものをもっている。フランクリンのような卑劣漢。没落する貴族階級にやがて取って代る、未来のブルジョワジーだ。 ――阿部良雄訳「ドン・ジュアンの最期」

ここで卑劣な人物とされているのはドン・ジュアンの家僕長
卑劣さの基準としてのフランクリン
フランクリンに劣らぬ卑劣漢、フランクリンほど卑劣ではない卑劣漢、フランクリンの倍は卑劣な卑劣漢、などの表現が可能

2022.7.27 wed. link

サド侯爵を追って
十二人の警官になる
彼は一人で十二人だったのか?
彼はド・サドに違いない
彼は手足が十二本あって十二本だったのか?
彼が絡まったからマルキ・ド・サド
十二人の警官のうちの一人が自分自身で十二人の警官になったから?
なぜなら、彼は自分自身で十二人の警察官だから?
彼はマルキ・ド・サドに絡まれていたのか?
彼は自分でやったに違いない?
なぜなら、彼は自分自身で十二人だから?
なぜなら、彼は事務局の一人であり、彼の手足に絡まったから
なぜなら彼はサド侯爵の手足が
マルキの手足を追った
彼は自分自身で持っている必要があります?
彼は警官の一人だったのか?
彼は十二人の警察官だったのか?
マルキの手足を追った
彼は手足で十二人の警察官一人一人の事務所で十二人になっていた
彼は自分自身で十二人のうちの一人だったのか?
自分自身で十二になる?
十二になる彼自身によって十二であったか?
彼は自分自身で十二だったのですか?
十二の警察になることは、彼自身にもつれましたか?
手足が絡まって
彼はマルキ・ド・サドに絡まれた警察を 持っているに違いない
マルキの手足を追った
彼はマルキの手足に絡まったから
彼は十二歳だから?
彼は手足を絡め取られたのか?

done 彼は一人で十二人の警察官一人一人の|mataji|note

2022.7.26 tue. link

語り手と出会った晩のうちに、血だらけになってませんか?
その件につき、井伏鱒二氏の報告
出来事のはじまりは、梅の香の匂う夜ふけ

名は村山十吉
住み込み先は鶴巻町37番地、石川方

酔って帰る道で、語り手と出会った晩のうちに、血だらけの顔のまま仕入れ物の買い入れ金を持って消えたらしい。
語り手は「もし、もし、きみ」と声をかけられる。
「……僕の顔は血だらけになってませんか?」
ほかでもない私があの村山十吉の声。
「……僕の顔は血だらけの顔のまま仕入れ物の買い入れ金を持って消えたらしい。
「……僕の顔は血だらけの顔で現れた質屋の番頭の。
名は村山十吉の声。
「……酔って帰る晩に、僕の顔は血だらけになってませんか?
住み込み先は鶴巻町37番地、石川方
と村山が言う。いや、言ったのか、あの晩、血だらけになってませんか?」

住み込み先の石川方をたずねるとそこは質屋で、村山は失踪したという。
ほかでもない私があの村山十吉だったのか、あの晩、血だらけの顔で現れた質屋の番頭の。

or

語り手が石川方をたずねるとそこは質屋で、村山は失踪したという。
去年語り手と出会った晩のうちに、血だらけの顔のまま仕入れ物の買い入れ金を持って消えたらしい。
酔って帰る道で、語り手は「もし、もし、きみ」と声をかけられる。
村山だ。
村山十吉の声だ。
「……僕の顔は血だらけになってませんか?」
と村山が言う。いや、言ったのは私か。
ほかでもない私があの村山十吉だったのか、あの晩、血だらけの顔で現れた質屋の番頭の。

done あの晩、血だらけの顔で現れた質屋の番頭の|mataji|note

2022.7.24 sun. link #推敲

推敲のこと。
やりすぎてはいけない。
そもそもは、してもいけないものなのかもしれない。

無難に、滑らかには不可
――――
人馬一体
ノーマークで?
――――
雲城の某自由
横になって寝ていない
突然、部屋にいっぱいの光を見る
見てびっくり、星のように、立っているペンを持っている幽霊
自由だと言っている

人格を捨てる
急いで辞儀をする、光はまた、消滅するように努め
このようにうぬぼれ
その後、彼は貧困に陥った、家族もダウン彫り、肉と血が次々と死亡し、一人だけが生き残る
祝福だけでなく、呪いでもない

2022.7.23 sat. link

赤城屋で見た不気味な白い真ん中のカブトムシ。

私は驚いて座り込んでしまう。
静まり返った山の中で、大きな眉毛をした彼らを見たから。

蛾が来るのが遅いので、ガラスの死骸が座っていたのですが、帰り道、赤城さんが、太陽が来て、二日後くらいに畳を敷いて、蛾が、「与一のカブトムシは嫌だ」と言いながら、道草をしてました。
赤城さんのところでは、こぼれるような不気味な蝶々を見たそうです。しかし、千秋は枕元でじっと世論調査をしていた。嵐を呼ぶという。

大きな太い眉毛のこと。

その赤城の望郷の庭に、畳が全部当たっているのを見ると、蝿の音がしている。しかし、この時、与一の弾くアリングに、私は座っていた私たちは、蛾の、彼女の、大きな眉毛のあちこちに、大きなカブトムシ。
酪農が昆虫のように見えてきて、乏しい蛾をかき分け、大きな目の上に座る。

蛾の、彼女の、大きな眉毛のあちこちにカブトムシ。

done 静まり返った山の中で、大きな眉毛をした彼ら|mataji|note

2022.7.19 tue. link

彼らは眠ることを受け入れる、
なぜなら、彼らは解放されたから。

彼らはそれに歯を回し、彼女のベルトに自分自身をぶら下げて梁につながる。
偽りの自分の死を喝破するために、彼女の梁、手泥棒、そして彼女に数日を持たせ。

商人が死んで、その女は彼を遠くに配置し、
それをビームに、彼は小さいながら自分自身を偽造し、
彼はその女を何百もの子供が眠るように言う、
彼女こそ偽の自分から眠るのを見張られていたのだった、と。

彼は歯と女の彼の部屋に数年。

2022.7.18 mon. link #エルンスト・マッハ #ヘンリー・ミラー #天球

私は子供のころ絵に陰影をつけるのは不当で事実を枉げる行為だと思った。輪郭画のほうがずっとましだと思った。どの民族も、例えば支那人のように、進んだ絵画技術をもっているにも拘わらず、全然影をつけなかったり、ほんの一寸しか影をつけないという事実は、これまた周知の通りである。 エルンスト・マッハ『感覚の分析』(須藤吾之助・廣松渉訳)

石膏デッサンの不思議。
なぜ美術教師はあんなにも線を嫌ったか。
「面を区切る線などはない、よくご覧、あるのは影の濃淡だけだろう」
というのが彼らの言い分だったのだが。

上の引用に「例えば支那人のように」とあり。
『感覚の分析』は1885年初版。19世紀後半ぐらいから、中国文化のヨーロッパへの紹介が急増していたのではないか。
――――
私はメリア叔母さんと一緒に家に歩いて帰るところで、そのとき突然、私は叔母さんが頭がおかしいことに気づく。叔母さんは、月を取ってきてほしいとしきりに私にねだる。「ほら、あそこの高いところにあるでしょう!」と叔母さんは叫ぶ。「あそこの高いところに!」 ヘンリー・ミラー『黒い春』(山崎勉訳)のうち「天使は私の透かしなのだ!」より

月などが手の届きそうな距離に見える例は、マッハの本などにもある。
ミラーは叔母の心理的変調と見たようだが、むしろ生理的なものではないか。

2022.7.17 sun. link #列子 #エルンスト・マッハ

マッハが『列子』を読んでいたこと。

私共は、未来における科学のすがたを確然と描き出すことはできません。しかし、人間と世界を隔ててきた壁が次第に消えるであろうということ、人間が己れ自身に対してだけでなく、すべての生あるものに対して、いや、いわゆる無生物に対してすら我利我利な態度をすてて温かい気持で接するようになるであろうこと、こういうことは予感するに難くありません。二千年も前に支那の哲学者列子はこういう予感を抱いていたのかもしれません。彼は古びた舎利を指さしながら、表意文字で記される簡勁な文体で、弟子達に向かって次のように説いたのであります。「彼と我のみぞ知る。我等生けるにも非ず、死せるにも非ず。生死の境なし」と。 エルンスト・マッハ「科学の基本的性格――思惟経済の体系」(廣松渉編訳『認識の分析』)

マッハは、Ernst Faberによるドイツ語訳(1877年)で『列子』を読んでいる。
Ersnt Faber はプロテスタント宣教師、多方面にわたる中国研究でも業績。(Faber, Ernst | BDCC

マッハが引いた列子の言葉は『列子』天瑞篇にある。
列子が越に行ったときのこと、途中、道端で食事をしながらふと見ると、死んで百年は経たと思われるドクロがころがっている。そこで列子はヨモギを抜いてドクロを指し、弟子に向かって「彼と我のみぞ知る」云々。

2022.7.16 sat. link #荘子

濠水という川のほとりに荘子と恵子が遊んだときのこと、荘子が「アユが楽しそうにしている」というと、恵子が「魚でないおまえに、どうして魚が楽しんでいるとわかる」と応じた。この『荘子』秋水篇にある議論――人は魚の楽しみがわかるか――をめぐって、中島隆博は荘子の立場を「根源的な受動性の経験」として解いている。

「魚の楽しみ」を経験するというのはまったく特異な事態なのだ。それは「自己」の経験の固有性を確認するのではなく、ある特定の状況において、「他者の楽しみ」としての「魚の楽しみ」に出会ってしまい、出会うことで「わたし」が特異な「わたし」として成立したということである。ここにあるのは根源的な受動性の経験である。「わたし」自体が、「他者の楽しみ」に受動的に触発されて成立したのである。 渡辺『荘子の哲学』

はじめに「わたし」が存在して、その「わたし」が魚の楽しみを理解したのではない。魚の楽しみに出会うことで、そのような――魚の楽しみのわかる――「わたし」が出現したのである。

別の言い方をすれば、「魚の楽しみ」の経験が示しているのは、「わたし」と魚が濠水において、ある近さ(近傍)の関係に入ったということである。それは、〈いま・ここ〉で現前する近くの能動的な明証性ではなく、その手前で生じる一種の「秘密」である。それは、「わたし」が、泳ぐ魚とともに、「魚の楽しみ」を感じてしまう一つのこの世界に属してしまったという「秘密」である。知覚の明証性は、受動性が垣間見せるこの世界が成立した後にのみ可能となる。 同前

濠水の節が「我知之濠上也」と具体性をもって結ばれていることの意味。
――――
これらの神殿は、何人かの客がいなくても武装しており、広東省を巡回している
師団が古い漂流者の木材をまとめて、東に尋ね、秘密主義者、ペッドのきれいな究極の儀式を歌った後、タングドンのマスクされたボートではなく、不当なイースターのために
雲が出て煙が出ると、私は何マイルも待つことなく郵便を実現しました
謎が煙る、私は死体
ブルーパス
またはボートの百海

2022.7.14 thu. link

理論も口上も述べずにダダをやったのがヘンリー・ミラー『暗い春』。
ミラー、デュシャン、ウィリアムズ、ダダはアメリカで深化。ダダとは名乗らなかったようだが。

後追いは、百年遅れでも。

2022.7.13 wed. link #壁抜け #荘子

『荘子』秋水篇にある話。ならば、荘子も壁抜けができたということ。

論理学派のコーソンリョーが道家のギボーに言った。
「自分は議論の達人のつもりでいたが、このごろソーシの議論に驚かされて、口もきけぬほどだ。自分にはかなわないのだろうか」
するとギボーが言うに、
「あのソーシという人物は、さらりと自分をほどいて万物の内に溶け込み、すべてを無差別に肯定する境地に達している。ソーシと議論するくらいなら、さっさと家に帰ったほうがいい」

2022.7.12 tue. link

黒島伝治 豚群
1926年

2022.7.11 mon. link #バタイユ

牝豚の比喩

 工業の過度の発展は、発展だけを目的とするものであり、人間を目的としない。この発展はまず、解きほぐすことのできない錯誤へとはまりこむ。現代社会の原則を表現したフランクリンは、目的もなしに節約することはできないことを、際限もなく節約して、蓄えた金を所有し続けることはできないことを、だから数千頭になるまで、牝豚に子孫を生ませ続けることはできないことを、理解しようとしなかった。
 わたしは、無数の豚の群れの真ん中で潰される夢をみている農夫たちを思い描くことができる。同じようにアメリカに住む富裕者たちが飢え始め、法外な資本のもとで貧しくなる様子を想像できる。「牝豚の比喩」は、この奇妙な錯誤を図解するものだ。 バタイユ『呪われた部分 有用性の限界』(ちくま学芸文庫、中山元訳)

書かれたのは1940年頃か。

2022.7.10 sun. link

人馬の散乱する山道をたどって、他郷へ逃れる。
または戻ってくる。
舌を欲しがり、村を作るために瞑想する。
唾を吐く。

息も絶え絶えに引っ張られ、
この村の変な女に引っ張られたんだ。死ぬんだ!
と叫ぶ旅人を殻に閉じこめて笑う。

彼らが賭けるとき、馬が倒れる。


done 人馬の散乱する山道で|mataji|note

2022.7.8 fri. link

天空を認識することの二つの側面。
ひとつは物理学的側面。
もうひとつは人文・社会科学につながる側面。

バビロニアの僧侶ベロスース(Berosus)の言葉として伝えられているところでは『始めにはすべてが闇と水であった』ことになっている。この深きものテホム(Tehom)というのがユダヤの宇宙創造の物語では人格視されており、また語源的にティアマートに相当している。その有り合わせた材料から神エロヒーム(Elohim)が天と地とを創造した(あるいは、本当の意味では、形成した)のである。
 エロヒームは水を分けた。その上なるものは天の中に封じ込められ、しかしてその下なるものの中に地が置かれた。地は平坦、あるいは半球形であって、その水の上に浮んでいるものと考えられていた。その上方には不動な天の穹窿が横たわり、それに星辰が固定されていた。しかしこの天蓋までの高さは余り高いものではなく、鳥類はそこまで翔け昇り、それに沿うて飛行することができるのである。エノーク(Enoch)は、多くの星が地獄(Gehennas)の火に焼き尽くされたさまを叙している。それはエロヒームの神がこれらの星に光れと命じたときに光り始めなかったからである。このように星辰は『不逞の天使』すなわち、主上の神から排斥された神々であったのである。 スワンテ・アウグスト・アーレニウス Svante August Arrhenius 寺田寅彦訳 宇宙の始まり

物理的には、天蓋の大きさと構成。
鳥は天蓋まで駆け昇ることができ、それに沿って飛行できる。そのくらいの大きさで認識していたこと。
また天蓋には星々が固定されている。そういう物理的構造。

人文的には、地上の出来事の反映としての天。
すなわち、不逞の存在としての星辰。
広くは占星術や歴史理論につながる方向。

星辰をまつろわぬ者の後身とするのは日本においても同じ。
「天に悪しき神あり。名を天津甕星あまつみかぼし、またの名を天香香背男あめのかがせおという。請う、まずこの神を誅し、しかる後に下りて葦原中国をはらわん」
天津甕星は金星。

2022.7.7 thu. link #天球