[2024.10.1 - ]

2024.10.30 wed. url

その顔は、前に見たのと違った。
ハカバマリ!」!長い! マリ!?「きゃはは
タリ
マヨ
…それだ!
歯ぎしりも
何者かに吹き飛ばされた跡だった。

2024.10.29 tue. url

(鬼どもまた その急所をはちつけ!!!)
おいる滝の複数のとのときゅうしよた 鬼の呼吸・〈滝壺〉! ドドンとちけ!! 和巳と、真下のともとちるん こきた。
(三人に 瞬時に(また!)
まっぽん ドドドンとな斬撃)
(浅い!)
おちゅうで「捌ノ型・伍ノ型……」

2024.10.28 mon. url

ところでどこかに、ハイレ・セラシエ II 世がいたと思うが、
ミュージシャンの名前だったか、それともアルバムの名前だったか。
いや、そんなことにかかわりなく、I 世がいるのだから II 世だっているはずと、
思い出そうとしたり調べたりするうちに、
ああ、それだったのか。
これだったとは。
いや、II 世ではなく、話は I 世にもどるのだが、
1966年、ハイレ・セラシエ I 世はジャマイカを訪れる。
民衆の熱狂的な歓迎に、
皇帝自身が動揺するほどだったとか。
その後、エチオピア南部の街シャシャマネのマルカウォディャ地区に、皇帝からその地を与えられたジャマイカ移民約200人が、エチオピア人のラスタファリアン約200人と共に住むと聞き、
ならばと個人史をたどってみたら、
沖縄を出たのがいつだったか、あまりに昔すぎて思い出せないが、
それからたぶん、横浜の港から移民船で出航して、
どこをどう巡ったか、やがてジャマイカに上陸。
そこからさらにエチオピアへと、
運やら人やらに誘われるまま、流されるまま、
住みついた先が、上記マルカウォディャ地区という。
どこかに――いまもエチオピアに?――そんな一生をやった者が記憶の中にいて、
今朝の寝床でハイレ・セラシエ、ハイレ・セラシエと、
そいつがおれに、呟かせたのではなかったか。

思いついてベッド脇の引き出しを探すと、次のようなメモ。

単純なベースライン、過度のディレイ
コラージュによる二世の肖像 → ジャケット
皇帝、帝国、パピヨン、ディア・ハンター、ブランキ
帝国気分?

さすがに自分の書いたものだから、まったくの意味不明というわけではない。
たぶん、「ハイレ・セラシエ II 世」あるいは「帝国」とでも題したアルバムを作ろうと考えて、メモしておいたのだろう。

2024.10.27 sun. url

笛吹きながら――
笛吹きながら――
幾野にあらぬ市原野、野盗あいての腕試し
笛吹きながら――

みやこを出るか出ないかの
月も出ごろのすすきの原を
笛吹きながら――

2024.10.26 sat. url

あなたがその気で いうのなら
三池炭坑の 出る出る月が 上に出る
さぞやお月が いうの娘の

もとの娘のなら ほん 月が出たかれまり煙突が わかれまり煙突がさして わかれます けむ 月がさん わた 月さしこむた出たらしの 娘のります ほんの気で 上に わた 月さしこむたいうの腕に 十八に 月がさぞやお月が出た 返しこむたかれてくれます バラックで 高いので ほんのなたかれたら 高いのり煙突が出た あならしの腕に 高いうの娘の娘ので けむ 月さんの

さぞやお月さん いうのなら
あなたがその気で けむたかろ

2024.10.25 fri. url

マルイ マルイ
マルイ マンノヨウナクロイ 月ガ
スミノヨウナルイ

カクロイ
マタックレタデタ月ガ

クロイ マンノヨウナルクモニ
ボンノヨウナクロイ 月ガ
マックロイ
スミノヨウナクロイ 月ガ
クレタ デタ月ガ クモニ

2024.10.24 thu. url

そして紙をめくる。紙が焼けた。 (突然二人がそれをする。それをする。もし彼らがそれを食べていたら、彼らは色を変えて、そして彼らを燃やしたからだけ...!彼らは...! 彼らは食べられる、彼らは! 彼らは見た。紙の技の糸。体に)。
炭治郎はタント紙を詰めている。体に)。

2024.10.23 wed. url

ヨネ子の別れ

2024.10.22 tue. url

鶏は鳴かず、夜は明けない
道は暗く、遠い列車の汽笛が聞こえる
かつて私はこの村で、石灰泥を抜けた木々に囲まれ、白い鶏を飼っていた
鶏は鳴かず、翼をたたんでわらを踏む
そんな朝、私は帰ってきた
今朝の朝?
鶏は今も白いの?
赤犬、黄犬、代わりに犬を飼うつもり

2024.10.21 mon. url

十二人だったのだろう
それとも十二人のうちの一人だったのか
侯爵を追いかけた

自分一人で十二人の警官となって
手足がもつれて
サドでしたっけ、侯爵を追いかけた

手足がどこも手足で
やたら一人で十二人にももつれて
侯爵を追いかけた

2024.10.20 sun. url

好きなだけ食べる、菊の花を頼んで
菊、お好きなようですね
お好きなんですね
花の畑を探して探して
行ってきます
行ってきます…
白い花を好きなだけ食べよう
秋の雲の下、寂しいから、花のために
菊、白い花のために、好きです
菊、お好きですか
見に行こう
白は寂しいから、菊のために、好きだそうです
菊、お好きなんですね、ひと玉に何の花
いのししに菊、私は菊だけが好き、菊だけ食べて歩くの
私は菊にものを求め、好きなだけ食べて、好きなだけ花の香りをかぐ
秋雲が菊の花を食べる、または一人の仲間が菊の花を食べる、彼らもそれが好きだと聞いた
いのししは花、または菊
彼らは菊が好き
秋雲の花を見に
私も菊が好き、あなたも菊が好き、いのししのも好き、あなたにも菊
好きなだけ食べて、香りをかいで、食べて

2024.10.19 sat. url

しかし、それは? その双眼鏡?
そう、この双眼鏡が、落として割れてしまいました。
わざと?

夏の思い出、南の島の、双眼鏡の。

あのとき、時田さんは、もしや私が鳥になることを目的として作り出した人物のフリをしていたのです。じつは誰も忘れてなどいなかったのですが、たまたま双眼鏡で沖を見ていた黒い手が、心配事を払うように床に落として、その黒く日に焼けた手が逃亡中の時田さんでした。

2024.10.18 fri. url

コラージュによる批評の試み

花田清輝「赤づきん」

マックス・エルンストが絵画の分野でやったコラージュを、散文の分野でやってみせたエッセイ。
上に引いたのはその前書き的部分で、このあと、グリム童話の「赤ずきん」をほぼ全文コピーし、それにつづけて、杉山平助という批評家をおとしめる意図で、平山のテキストを数点コラージュしている。

既存作品の切り貼りを主たる技法とする評論。
作品としての出来はともかく、花田の狙いは刺激的で、成功していたら文芸の世界にかなりのインパクトを与えたのではないか。
「赤づきん」を含む花田の評論集『錯乱の論理』は1947年刊。
ウィリアム・バロウズやブライオン・ガイシンがカットアップの手法で小説を書きはじめるのが1950年代末。

2024.10.17 thu. url

事は難儀をしながら進む。
事はいつもそう。
旅館ともなれば、いろんな人が出入りする。トラブルもある。手配中の殺人犯もくる。
「ちょっとものを尋ねるが」
玄関脇でマキを割っている年寄りに声をかける。
「古太郎という客はいつから泊まってる、いまどこにいる」
年寄りはナタを振る。
割れたマキをかたわらに投げる。
「古太郎なら、ずいぶん前に死んだよ」
死んでたか。

事はいつもそう。
誰かが何かをまちがえている。
代わりにこの爺さんでも連れて帰るか。

2024.10.16 wed. url

ニシンは水に浮かぶ、だから私も水に浮かぶ

彼女はニシンの子のように、私の娘も水に浮かぶ
そして彼女は九つの
泡を噴いて、考えながら

悲しいかな、時どき私はカトリナの箱にのぼった、彼女は峡谷に向かって歩いていた
ルビーは鉱夫のように軽やかにスキップし
水の上に落ちた
エヴァーンはスキップができなくて
水の中に落ちた

私の娘は水に浮かぶ
ニシンの子の、九つの泡が永遠

2024.10.15 tue. url

プレアデス星団 - Wikipedia

氷の果ての船の灯りがいちばん悲しい
とでもしておくか
または、鍵のかかったプレアデス

2024.10.14 mon. url

あたりを見回すと、エビス、ダイコク。
ダイコクは浅草公園をうろついている男が、それだったかもしれない。
次に、浅草公園の近くに家があるらしい男もいた。エビスか。
夜遅く暗い中、彼らはまるで暗闇をうろついているようだった。彼らが自分の宿舎の周りをうろついているのを不思議に思った。彼はダイコクと名乗り、本所あたりをうろついているところを尋ねたら、つらい顔をした。
夜遅く、彼は私の宿舎の周りをうろついているのを見たようだった。彼らが私の宿舎の周りをうろついているのを不思議に思った。ダイコクとエビスだった。

子供の声が歌ってる。
〽ダイコクさまは、だれだろう

暗闇でうろついて、彼の時間を伝えてやると、私はホームレスかもしれない男が後ろにいる。
家と木造の家と暗闇で遅くまで彼らの苦味。
迷いながら泊まっていたなら、闇の中。
空白の滞在だった、そして彼はダイコクであり、彼らに言ったかもしれない男が、彼らのような顔をしてさまよっている。

〽オオクニヌシノミコトとて
あいつがそれか。

2024.10.13 sun. url

ボンボンはあらゆることにおいて天才だった。
哲学者で、天文学者で、料理店主で、自分で調理して自分で客をもてなすカフェ・ド・ボンボンを営む。ポーによれば、店はル・フェーブルの袋小路にあり。

「ボンボン、私のことは知ってるな」と悪魔は言った。彼は敬意を払う態度を捨て、耳から耳まで口を開けて、ギザギザの牙のような歯を見せ、耳から、トラ猫は騒々しくコーラ猫は騒々しく、金切り声を開けて金切り、爆発的な、大きながら耳から耳まで逃げた。耳まで横っていた。遠い声を上げた歯を見せ、後ろ足で逃げた姿勢で横って、耳から、のけぞって、長く、爆発的な、耳まで座った。爆発的な歯を捨てて隅まで座って、長くコーラ猫は敬意地悪な歯を開けて、耳まで口を開けぞって、意を思い切り突っ跳びに加わり突った。のけぞった姿勢で、長く、大きな、意地悪な、爆発的な笑い声をあげた。後ろ足で座っていた黒犬は騒々しくコーラスに加わり、トラ猫は足を思い切り突っ張って、金切り声を上げながら、遠い隅まで横っ跳びに跳んで逃げた。

「私はねえ、ボンボン、私はべつに急がないよ」
悪魔には眼がなかった。
眼があったという痕跡さえなかった。

ピエール・ボンボンにもし欠点があるとすれば――とポーは書いている。

2024.10.19 note.com 投稿
ボンボンにもし欠点があるとすれば|mataji

2024.10.12 sat. url

ひきつづき私はパリにいる。
毎晩、ラ・フルシュに通う道でひどい目にあう。
頭の皮を剥ぎ取られ、斧を打ち込まれる。
家に帰ると、血を洗い流して、大いびきで眠り込む。かくして私は、身体と魂の安泰を保つ。

私の住んでいる家が、現在、取り壊し中。
外壁が剥がされ、皮を剥ぎ取られた人体にそっくり。その恐ろしい感じがいい。
家の内部がさらされればさらされるほど、私はこの家が好きになる。

幌無しの馬車を雇ってブロードウェイを走らせたことがある。秋の午後、自分の生まれた街を馬車で通り抜けたのだ。
四十二番街まできたとき、私は所持していたピストルを打ちはじめた。
左右に打ちまくったが、人の群は減らない。
生きた者は死んだ者を笑顔で乗り越えていった、白い歯を見せびらかして。
アメリカは貧乏人に笑顔を向ける。笑顔に金はかからない。
笑顔をやってろ、糞ったれども。

地図の上で私はパリにいる。暦の上では今は20世紀の30年代。
だが私はパリにいるのでもなく、今は20世紀でもない。
私は中国にいて、中国語で話す。
三角帆の船で揚子江を遡っているところだ。
食糧はアメリカの砲艦が捨てたごみを拾い集めている。

あてもなく雨のなかを歩いているうちに、かつて何度も夢で見た街に出て、それがいま現に自分の歩いている街なのだ、ということがある。
ある日、そんな街で男が舗道に倒れていた、両腕を広げ、ちょうど十字架からおろされたところといった格好で。
ふいに男を囲んだ人の群から嵐のような笑い。
私が人をかきわけて前に出ると、犬がうれしそうに尻尾を振っている。男のズボンの前が開いていて、犬はそこに鼻を突っ込んでいた。
私は悲しかった。どうしてあんなに悲しかったか。

別の日の同じ場所、肉屋の前の通りに男が倒れていた。
近寄って見ると、前と同じ男だった。ズボンのボタンははめてあり、そして死んでいた。
男の死骸のほかに人影はない。人声も嵐のような笑い声もない。
だが、夢ではなかった。

両手を広げて肉屋の前で倒れていた男は、私自身ではなかったか。
私は自分が訪れた先で、いつも死骸をひとつ残してきた。
そのたびに私はかがみ込んで、私が置き去りにしようとしているものが、私の自我であることを確かめた。
私は同じことを繰り返して生きてきた。いまも繰り返している。
降り出した雨のなかを、あてもなく歩きはじめると、旅の途中で脱ぎ捨ててきた自我のすれあう音が聞こえてきて――

以上、ヘンリー・ミラー『暗い春』による。

2024.10.11 fri. url

佯狂ということ。

黙庵「四睡図」

禅画でいざダルマやホテイを見ると(……)、そのダルマは無愛想だし、ホテイだって笑ってはいるが、不気味である。笑い顔といえば、特に寒山、拾得の笑いは薄気味の悪いものであった。
どうして、禅画の祖師像はみな不気味さとおかしさを表現したものになるのか、それはやはり禅の目的そのものが、ナンセンスの世界に合体することにあるからだというのが、私のわたりつけとなり、納得のしかたとなった。 草森紳一「祖師禅機画」(『日本ナンセンス画志』のうち)
同じ黙庵霊淵に「布袋図」あり。
その図に中国の僧・月江正印がつけた賛の一句「長街短巷に佯狂をほしいままにす」を引いて草森が言うには、

月江正印のいうように、布袋がもし禅師たちの理想であり、師とするにたるものであったとするならば、「佯狂」でなければならないはずだ。狂っているのか、狂っていないのか、自分にも他人にもわからぬ境地へしか、禅のような自力本願の、つまり知識のかたまりのような彼らが、到りつくせるはずはないと思うからだ。知識人はどのようにがんばろうと、「佯狂」というナンセンスにしか達しない。 同前

2024.10.10 thu. url

顔の絵本でも足りなえし。
あの折り返しみも足りねえるの灰にしてくれ。どうし。
それ長靴のよ。
それよ。
顔のなやつだろうしなくれが、出し惜しみしなわけよ。
ま、惜しみも足り返しなくてよ。
それがわけよ。
それが。
それがどうせ長靴によ。
まぬけによな。
それによ、顔の折り返し。どうしな。

ま、ズボンの返してくてんのは、おれ。
顔のか荷物か荷物かわけ。
長靴のなくれ。
負けてくれがどうが、折りなえす昔の返し。

2024.10.9 wed. url

ドス・パソス『北緯42度線』(尾上政次訳、筑摩書房『世界文学大系87』)

手法はコラージュだが、それぞれの記事の位置は、記事の語る出来事の時間順のはず。
アナキスト教育家フランシスコ・フェレルの処刑は、1909年。

「わたしをさびしい草原に埋めないでおくれ……」というフレーズは、他のページにも出てくる。
原文は見てないが、このフレーズは民謡の歌詞だろう。
  Bury me not on the lone prairie...
このアメリカ民謡は、映画『駅馬車』(1939年)で使われて世界的にヒットしたというが、『北緯42度線』はそれより10年ほど前に書かれている。
この歌詞がそれぞれの場所に置かれた理由は読み取れない。たまたま執筆中の著者の脳裏に浮かんだフレーズ、あるいは鼻歌ということもありそう。

出来事を、たんに時間順に並べること。因果関係は無視して。

2024.10.8 tue. url

ボルヘス、カサーレス『レゾートル――はみだした男』(山崎剛太郎訳、『夜想』16号)

子供のころ、迷子になろうとして砂丘を歩いた。
自分は砂の中で生まれて、砂の中で死ぬだろうと考えていた。
とても気分がよかった。

気分がよかった。そうなのだろう。
土より砂。
乾いた感じがいい。

2024.10.7+ mon. url

その瞬間、マスクとマイスターがその姿を後ろに追い越す。
埋葬された遺体は仮面をかぶり、椅子を背もたれにして立ち上がる。
秘密の死体もそうする。黒く見える。

その人物は光を発し、上半身を起こし、長いあいだ光っている。
手袋で、二番目の死体の彼と。

彼の指の発話の光は、スタジオ赤と呼ばれる。
たまたま背後を女帝が通り過ぎる。
彼の死体の二番目の役者が言葉を発し、彼の死体が立ち上がり、登場人物に答える。スタジオの秘密の登場人物もそうする。

ローブを巻きもどす。

2024.10.7 mon. url

子猫に、彼女の子猫に、彼の詩人に、そして墓標に。
叫びが彼女のエンジンを駆動する。

一連の出来事におけるオトシゴの役割。

アクアミカントで形成された彼の研究所、彼の人工物、使い果たした水底。
師走、レンの庭園のスコヴァシティをオファシティに変換。

クロールの書斎、情熱的な二人の判事。
使い古した庭園を掘り返し、オトシゴがそれを防ぐ。
カントレルの書斎で、飛び散る火花。

2024.10.6 sun. url

[[陰生者之家]]

室自壞、以免破屋之咎
常止於市中謠曰
陰生者、殺之、乃去濯者之咎
係著桎梏而續在市人、乃去濯之、殺十餘人厭苦
室自壞、與美酒、長吏知之咎
陰生者之家

室自壞、與美酒、旋復在市人厭苦
見乞兒、殺之家
長安中、械收

係著桎梏而續在裡中乞兒也
常止於市中乞兒、與美酒、殺之、乃去濯之、械收
係著桎梏而續在市中乞、乃去濯之、長安中乞
見污如故長安中乞、衣不見乞兒也

見乞、旋復在市中乞兒也

[[陰から生まれた者の家]]

家が自然に崩れ落ちたのは、破屋の咎を免れるためであった。
常に市中にとどまり、歌にこう謡った。
「陰から生まれた者は殺され、その罪は洗い流される」
桎梏をつけられた者が市民の中に連れ出され、
その者たちを洗い清めてから殺し、十数人が苦しみから逃れた。
家が崩れ落ち、美酒を与えられたことは、役人も知るところであった。
陰から生まれた者の家がそうであった。

家が崩れ、美酒が振る舞われ、再び市中の人々が苦しんだ。
乞食を見つけては、その家を滅ぼし、
長安で捕縛された。

桎梏をつけられた者が市中に連れ出され、
また市中の乞食となり、
再びその者たちは洗い流され、
長安で乞食として生きた。
その乞食たちは汚れ、再び長安にその姿を現した。
彼らの衣はもはや乞食のようには見えなかった。

乞食を見つけると、再び市中で彼らはその姿を現したのだ。

以上、日本語訳は ChatGPT による。
訳し終えて同 AI が言うには、「この詩は、社会的に疎外された人々が市中でどのように扱われ、彼らが苦しみながらも復活する様子を描写しています」と。

2024.10.5+ sat. url

どのカエルか、他のカエルか。






自分の作物を自分が見てやらなかったら、誰が見るか。
せめて自分くらいは。
そして、ア・ビエンタワ。そして、マム。

2024.10.5 sat. url

アナゴの目がチラチラした。
彼女は有毒で、日暮れに似た話し方をする。

見た目の右と左。

サメとウツボの世界では少数派。

2024.10.4 fri. url

私は、コウナの人々のアヴェンにて、白い音の秋の季節に、土の火の大きな岸辺のアトマンテンプで暮らし、私は私の雲の上の、ちょうど摘み取られた道で、秋の季節のホジョエのキモウディの野原に、私の雲の上のユラインの、アミデニゴヤに落ちて落ちます。キモウディの野原にボードの上の夜が明けて、地にはリートリンギの最初のナナクサ。

夜が明けると、ユラヴェールの川で生きている。

そこでの作業は秋を告げ、ウコンは清らかな花を摘み、アサドの町を訪れる。
そして、ア・ビエンタワ。そして、マム。

アンセのバスの翼は、アンセでさえ、太陽の恋人であるアンセです。
私はボートに乗っています。
秋の潮の満ちた山々の終わりは、秋の混雑した終わりです。

2024.10.3 thu. url

どのカエルか、他のカエルか。
カエルはトレイで育てても生物遺伝学的に育つ。ヒトであろうと、カエルであろうと。

南方系の彼女は葉っぱのような緑色で、葉っぱのように凹んでいる。

このカエルが展示する子ガエルは、アメリオールの外にいる。
山地に特化した集団のすべて。
日本の雨はメタモアの量で評価され、それぞれのカエルはオタマジャクシで小さい。
卵塊は卵黄の数だけあり、よく卵を産みます。

アノテ種が四国原産であること。
ニホンアマガエルのコンテナに記載あり。

2024.10.2+ wed. url

1961 Robert Breer Blazes


Eyewash - Robert Breer (1959)


関連記事: zakki no.48 2024.7.26

2024.10.2 wed. url

ああ、舌が出してみたいねえ
舌が出して
たかが、ペロッと

あなたや他の断食洞の信奉者たちは、人間の能力の限界を厳しく批判すべきことを忘れてしまっているように思う。だから愚かにも、人間が人間であることを忘れ、人間が無であるかのように、あるいは人間がすべてであるかのように考えてしまう。酒精ランプは自分のランプで、自分はランプの自分だなどと触れ回る。――

そんなことより、ペロッと赤いの

2024.10.1 tue. url

ゆくえも知らぬ、これはまた
悲しいお言葉をきくものです
小笛を奪われたその場所へ
望みのものをやろうとは
草をむしり、岩をつかみ、木の根にすがって
谷音は、右にもきこえ、恋の道かな
紫大納言