[2024.11.1 - 2024.11.30]

2024.11.30 sat. url #詩

僕は歩いてコマの出口に着いた。
偶然、その部分が固くシールドされていた。
僕は脚を折った。
脚を折ったのですね。
はい、折りました、折れてしまいました。

僕は海が恋しい。もしそれがまだジュニアの丘から見えて、マリコ、ノブオ、ユーサク、何人かの人々が急いでいる時間だったら。もしそれが丘の麓にあって、もしそれが起こったら、その部分が僕は懐かしい。丘の上のバンド連中が不意に騒ぎ出し、その丘ではじまった追悼。

私たちは窓際で鬱屈していた、傾いた教室の。
傾いてました、斜めに。

2024.11.29 fri. url #詩

しろくるものが、鉄砲をにかえったちをにひきたね
ちをかり、まちをにひきた
する
ちをにかりのようなにひきた

ぴかかえっと、鉄砲をある、まよっかさかりの

こかみるを、しろくまちしろくまよったり
兵隊のかさかいで
ちをにひきつれてきたり

どこへ、まちをにひきつれ、鉄砲をまのようなにかたね

2024.11.28 thu. url 創作論

注文が入力されました。
ビー玉。

偶然による仕事の「発端」と「発明」を、比喩的に確認しうるような、ひとつの挿話――とハンス・リヒターのダダ史にあり。目撃譚。
アルプはアトリエで長い時間、ひとつの素描にとりかかっていた。
いらだって紙を引き裂き、紙片を床にまき散らした。
しばらくして、ふと彼は床に眼をやった。 散らばった紙片の配置が彼を驚かせた。
彼がそれまで何時間も求めて得られなかった表現が、そこにあった。

偶然と必然

2024.11.27 wed. url #詩

ばくにの ばくとうにの ありぬ
ありくちに
ばくちして こうにこそ

にくなりく なしてこうなれ
わがに ありぬらん
なれ ばくちして こそ

なりくかなれば ありく
ばくなれば まけたまうな

2024.11.26 tue. url #詩

法螺貝の おものうを ちようと ち ち 山伏の
くだけたる ち 法螺貝の
山伏の
ものをおものを ち 法螺貝のを うもとわれ

山伏の ころかな
ころかな
ころかな
ちよう て 山伏の

くだけたる 法螺貝の
山伏の
ものをおちよう 法螺貝の ち ころかな

山伏の 法螺貝の

2024.11.25 mon. url #詩

bestilis チュジルカズーク
zor エスーク
チュジスティ cazili リカル カルジス cabestaf or cazilis スール カル
オリ abesitar スタリ qué オリ ジスタリケ
estis カピタリジスティ stusi ollisi ベドカズール ca チュジル

カピタリ orisolali capi カル
zilli ollcar エスタリケ

エスタリジスタ oué アヴォリケ
bisilar カピタリ カピタ besta オリジル

2024.11.25- mon. url

トリスタン・ツァラ著、小海永二・鈴村和成訳『ダダ宣言』

2024.11.24 sun. url #レトリスム

一昨日の続き。
雑誌『レトリスト独裁』は創刊号だけで終わった。
この号で注目されるのは、ブラジルという作者の詩「カリプソで涙を流すために」(Brasil, “POUR PLEURER CALYPSO”)。レトリスム詩がフランスの出版物で公開された最初期の例かという。以下の引用はその冒頭。

塚原史『レトリスム研究序説』

困惑とか、反発とか、この詩に対するおおかたの読者の反応は、そのようなものであるかもしれない。
けれども一部の読者は、意味――とまでは言えないにしても、意味に似た何か――を、このレトリスム詩から感じ取ることがあるのではないか。

説明しがたい何かに接したときの情動、それがポエジーだ、と早くにツァラが述べている。

トリスタン・ツァラ著、小海永二・鈴村和成訳『ダダ宣言』

それに類する情動を、俳優の西島秀俊がノイズミュージックに関して言っている。
曰く、楽しいとか悲しいとか、そういう自分の知ってる感情を増幅してくれる音楽はもちろん素晴らしい、それはそれで楽しいけれども、その前というか、名付けようのない感覚を与えてくれる、その感覚のそこは触られたことがない、そういうもの――
- 2023.3.23記事

2024.11.23 sat. url #詩 #明智小五郎

なくなった姫田さんの日記帳問題。
なくなったのは、姫田さんか、それとも日記帳か。
民間探偵の明智小五郎氏にきいてみた。

第三は姫田さんか、日記帳か、とおたずねか。第三は姫田さんの親戚や知人です。第二は姫田さんか、これは今でも熱海署がやってるわけです。これも彼らの別の課が探りを入れてますが、こう日がたってお話しますが、こちらもまだ何も出てきません。第二は姫田さんの親戚や知人です。第一は熱海の現地の線がありますが、これは今でも熱海署がやってますが、こちらでしょう。あなたには三つの線です、第二は姫田さんが口にしていた例の白い羽根の送り主の秘密結社の線です。どちらもまだ何もかも打ちわってるわけです、どちらでしょう。これも別の課が探りを入れてますが、こう日がたってるわけです。

あの。明智さんですよね、民間の。
そのとおり。姫田さんか、日記帳か、とおたずねかな。

2024.11.22 fri. url #レトリスム

レトリスムの創始者イジドール・イズー(1925-2006)はユダヤ系ルーマニア人。
若年の頃は、左派シオニストで、無神論者。
晩年の自覚は、自分はユダヤ教の儀式を受け入れていない、ユダヤ人ではない。

1946年1月、パリでツァラの戯曲『逃走』が上演された際、強引に発言の機会を得たイズーは、
「我々は単語を破壊して、そこから文字を取り出す詩を提案し、レトリスムと名づける」
と宣言して、自作の詩を朗読。これがきっかけで「レトリスム」の語が広まる。
同年4月、仲間たちと雑誌『レトリスト独裁(LA DICTATURE LETTRISTE)』を創刊。ここにも「レトリスム」の定義あり。

塚原史『レトリスム研究序説』

この宣言をあわせ読めば、レトリスムとはたんに詩のジャンルを指すだけでなく、文学、音楽にわたる運動をも指す。

2024.11.21 thu. url #詩論 #レトリスム

塚原史『レトリスム研究序説』

ツァラの述べた作詩法(新聞とハサミを用意しろ、というあれ)では、できた詩の全体はナンセンスなものになるが、単語の意味作用は無傷で、ツァラによる言語の破壊は単語レベルには及ばない。
これに対し、文字単位で分解するレトリスムの手法では、単語が破壊されて、詩は意味不明のものになる。

では、上の例にあるような手法で作られたものを、それでも詩と呼ぶことができるとしたら、何故か。
著者の趣旨から離れることになるが、たとえば ya epmes rapht ul という文字列にも、音声、リズム、イメージ、さらに意味までが保持されているからだろう。
音声が保持されているのは、この文字列が表音文字を並べたものだから当然として、リズム、イメージ、意味までが保持されているのは、この文字列を作ったのが人間(今の場合は著者)だから。
ある文字列を作者自身が詩として認めるなら、そのさい作者の好みが働かないはずはない。その文字列が作者に何らかの情動をもたらすから詩と認められるのであり、ときには「不気味な音声が呪文のように響き始め」たりもする。ランダムに並べられた文字列が、すべて詩になるわけではない。

2024.11.20 wed. url #詩

私たちは、崖の赤い煙のような、この崖の赤い煙が、私たちの理性を煙にまいてしまうような、そんな崖の端に、きっといた。

それは崖の上だった。
もしあるならば、それは私たちの目から一瞬の、回想の力である。
けれども、夜が更けるより、遠い外庭。

カラスを羽ばたかせれば。

いえば崖っぷちからの亡霊のような、そんなゴースターのポーズを思い浮かべれば、崖に揺られるような、そんな千一万にあったような、私たちの目に飛び込んでくるような、それさえも奈落の底に突き刺さるような、そんな前触れだった。

その崖っぷちまで、あと少し。

2024.11.19 tue. url #詩

私は、シェイシーのエッジを見ることができるかもしれません。
そのとき私たちは、シェイシーがテリウムの中で最も美しいと思われるヘヤエスティックに最高のバランスで保存されます。
世界には、その美しさに魅了されたシェイたちの思い出がある。
夜、カンセ・グランプ。
私は、道路を横切ってシャンシャン、私を反転させます。

2024.11.18 mon. url #詩 #レトリスム

乃(もちのや、其の異なわ)のち道を俯して脱ぐを下り
後矢(か)く、連珠を謂(しかん)継ぎ至り、叟の口を見るに、之を尾(つ)剛(つよ)れ然(の左足を尾(り、焙(い)ゐんや、翁の仰臥す

叟の如く発(して堕(り
何ぞ須(つ)の仰臥す

乃(の仰臥す

両指(つよ)つよ)ゐんや、急ぎ之を尾(す
後矢(つ)の如く
何ぞ須(して鉗(つよ)く
両指(のや、急ぎて左足を出して、叟のち道を窺い)く

何ぞ須(して左足を出して、左足を出し)く
両指(すなわ)ゐんや、急ぎ至り、焙(つ)く
急ぎ之に臥す、後矢(す

2024.11.17 sun. url #大竹伸朗 #ZINE

『大竹伸朗展 図録』7「自作本」より

自作本のおおかたはカラーコピー、他にオフセット、シルクスクリーンなど、一部は手書きを加える。ページ数は10から数10ページ。図録には160点ほどを収録。

デジタルテキストとしては完成させた(つもりの)詩を、どこへどうやって持ち出すか。

KID KOALA - SKANKY PANKY (LIVE IN THE STUDIO)

2024.11.16 sat. url #詩論 #押韻 #リフレイン #トリスタン・ツァラ

既に、ツァラが、相互関係を故意に奪われた言葉の並列だけに固執していないことも感じられる。いくらかのリフレインがあらわれているからである。

  ミカンとスペインの白
  私は自殺するマドレーヌマドレーヌ

というくり返しは、わらべ唄の持つ魔術的な魅力を持っている。この魅力は、一つの与えられた文章から作る数々のヴァリエーションにも見られ、それが一つの詩形式であることは明らかである。 アンリ・ベアール『ダダ・シュルレアリスム演劇史』(安堂信也訳)
混沌のなかから浮かび上がるリフレイン
それが詩や歌のはじまり
ミカンやスペインが白かったり、マドレーヌが自殺するだけでは足りない
プラス、リズムや押韻
リズムの一部はマドレーヌマドレーヌのリフレインがもたらしている
押韻は(この和訳の場合だが)ミカンとスペインの「ン」がそれではあるだろう

まずひとかたまりの混沌がある
文芸の場合はテキスト
テキストの一部を取り出してリフレインさせる
ある時は、そのようにして詩作がはじまる
またある時は、べつの仕方でだが

とりあえず、リフレイン
感情や内容はあとからついてくる

2024.11.15+ fri. url #坂口安吾

彼は斯の日頃、永らく文学を忘れ芸術の雰囲気に遠ざかる者であつたが、この日ゆくりなく一片の即興詩を(――生れて初めての経験であつたが――)歌ひ出す悦びを持つたのである。彼は墓地を彷徨し木陰を縫うて、日没の迫まる頃まで魂を籠め(――まだ幸ひに落失おとさなかつた!)幾度か推敲に耽つたのであるが、技巧を弄ぶに順ひ其れは次第に真心を遠ざかる物となり、結局素朴な原型である即興詩のみ此の際最も適切な物であることを認めて満足した。

  旅人は
  野越え山越え村越えて
  幾度しよんべんするものぞ!

黄昏の迫まる頃、彼は俄かに我に帰り、墓地の裏門を廻らずに、倉皇として垣根を破り犬の如くに逃走した。
坂口安吾 竹藪の家
ことさらな友情、恋情とかではなく、同種ではあるが、ごく軽いそれら。
そんな感情を思い起こすことがある。
高校の同級生 N は、上の詩をひどく喜んでくれた。「風博士」の再話も面白がった。それにしても、なぜ N を選んでそんな話題を持ちかけたのか。
N とのかかわりはそれぎり。それ以外の交流におぼえがないし、卒業後の消息も知らない。

2024.11.15 fri. url #詩

「ついに、全身が燃えているのを見て、羊飼いが私の農場のカバーを盗むように言いました。海の下に、見知らぬ老人が横たわっていました。海の下に、見知らぬ老人が。
疑いなくアラビア語で)、それから私は燃えていました。老人を意味し、老人のために目を覚ましました。私は長いあいだ、「ついに、全身が燃えているのを見て、羊飼いが私の農場のカバーを盗むように言いました。海の下に、見知らぬ老人が横たわっていました。
疑いなくアラビア語で)、それから私は燃えていました。老人を意味し、老人のために目を覚ましました。
「ついに、全身が燃えているのを見て、羊飼いが私の農場のカバーを盗むように言いました。海の下に、見知らぬ老人が横たわって。
疑いなくアラビア語で)、そして、老人が船をつかまえてそこへ行き、私たちはそこに行き、それからそれは長くは続かなかった。そして彼は言った、「うーん!」と彼は言った。そして彼は言った、「砂の葉」――

――「陸に着くと、死体が男の周りを回り、私は目を覚まし、そして自分たちを見た。
老人を雇って、私は一緒に燃やした、葉) -「ランスで、疑いなく、アラビア語で)、私は希望する。

2024.11.14 thu. url #詩

汐ふきそっくりの顔をして、
汐ふきだのとんがった、そっくりの、舞台のまんなかで。
いや、むしろをとおりすぎました、
あわてて笑いをかみころしいな)

その口であのうちのといいました。

それは、おそろしまいましてこわい顔だの、
いや、むしろをとおりすぎましたけれど、老人は、おそろしいな)

それは、おかしい顔ですが、ついに向こうへいって、
そしていました、つくり舞台の。

2024.11.13 wed. url #詩

イタカマサを唸らせましかしょい
シゲンサ
ゲンプレ
瑟瑟の初音を唸らせまれたテンプレ
シゲンサツ

玻璃はシゲの初音をハイ
ゲンサツイワサツイ

タカマサト、ゲタカマサ
彼は民衆を唸らせまれたテンサ
しかしょい
ワサ、イワサ・シゲンプレ

2024.11.12 tue. url #詩 #詩論

TWININGS Earl Grey Tea

自分が詩情を感じたら、それは詩というものだろう。
少なくとも、自分にとっては。

2024.11.11 mon. url #詩

木の色が飛んで、捕まえて殺すと、動き回るが、色が違います。食べ物と区別がつきにくく、捕まえて殺すと、一対の足があります。クモは足を動かしますが、動きます。クモは長いです。アリは他にもあります。六本の木に止まります。また、動物と同じように、アリは糞や鳥の足を動かします。八本の足を動かします。また、アリであれば、アリの形はクモとはまったく異なります。動くはずの動きで、本当の形は静止しています。そして、血や糞を動かします。誤って六本の足を捕まえて殺し、アリグモであれば、動きます。八枚の葉のひげを引っ張って歩き回り、一種の鳥の足を動かします、クモは。

2024.11.10 sun. url

アンリ・ベアール『ダダ・シュルレアリスム演劇史』

関連記事: 2023.9.7 thu.
因果に貫かれた物語から因果を切り離し、クリスマスの豆電球のように吊りさげられた首だけをもらってきて、別の文脈にはめこむ。それなら、コラージュだが――

2024.11.9 sat. url #詩 #九官鳥

図2.13 「おはよう」の音の模倣 (A) と女性の声 (B) 九官鳥の模倣音。母音のフォルマント (F2)、縦軸: 周波数 (kHz)

夕食のために家に帰る途中、ジェニーは言った。
「次に、九官鳥の模倣音が人間の音声とどう違うのかを論じたいと思います」
私は席に寄りかかり、トウモロコシ畑や森から時々吹き込むかすかな涼しい空気を吸い込んだ。
「図2.13 は、鳥の模倣音である「おはよう」と人間の模倣音である「すうよう」の音として一般に知られている音のスペクトログラムです」
湿気が道に吹き下ろしてきて、肌寒い感じがした。
問題のスペクトログラムについて、彼女はすでに紹介したものだと言った。
そうなのだろう、わたしは憶えがなかったが。

カーラジオは鳥類の攻撃が近隣に拡大していることを報じていた。

2024.11.8 fri. url #詩

二体のな 角度の 沼の罪もなかまえ
(なに 沼の頂上は すさでこでう ないかのよ!
かのよ、奥山の
ハハハ!! どこんどこんで 十六さむすの

二体の娘がうつ 沼の
気が うだし!」(なか小僧!!!!!!)
そう逃ぐるな のように

2024.11.7 thu. url #詩

俗に伝う、此の鬼、尤も多し
誤って之を食らえば
即ち水莽鬼すいぼうきと為り、輪廻にまる
必ずまた毒あり

花あり、色は紫、扁豆へんずに類すと云う
辺り、水莽鬼、尤も多し

花江一帯、蔓生まんせいくずに似て
必ずまた毒あり

2024.11.6 wed. url #押韻 #ラップ #川原繁人

韻の飛距離ということ

川原繁人『言語学的ラップの世界』

ZORN(ゾーン)はラッパー。
ここでの言は、「制約は創造の母である」(川原)との論旨に沿ったもの。
韻を踏めという縛りが、かえって創造につながる。

「制約は創造の母」については、次の記事の「追記」を参照。
- 2024.7.8 mon.

2024.11.5 tue. url #山椒魚戦争

The War with the Newts

人生や社会のあらゆる問題の参照先となりうるバイブル――カレル・チャペックの『山椒魚戦争』はそんな一冊としても使えそう。たとえば、岩波文庫版(栗栖継訳)をテキトーに開くと、こんな場面が――

「うん」フランチークは、困ったような調子で、つぶやくように答えた。
「母さん、鋏を貸してくれ。おれという人間が生きていた、というしるしを、後世に残すために、ひとつ、こういう新聞を切り抜いておかなくちゃ」

いろいろに解釈できる台詞。ああも読めるし、こうも読める。

両義性、多義性は『山椒魚戦争』の基本的性格。批判対象のファシストからは憎悪された一方で、共産党政権下でも作品の一部が削除されたという。参照する価値はあるが、わかりやすい答えは返ってこない書とでもいうか。

関連記事: 2024.5.18

2024.11.4 mon. url #リフレイン

左枕?
なんだっけ、それ。
ヒダリマクラ、ヒダリマクラと数日前から脳内でリフレインしていて、だが、由来が不明。北枕や西枕なら聞いたことがある。死者は頭を北に向けて寝かす。それができないときは西に向ける。そんな話だったが、なんだろう左枕というのは。左があるなら右もあるのか。

調べてみると、「青空文庫」にいくつか例があった。
いずれも田中貢太郎という文筆家のもの。

室の中は晩春のように暖かであった。そこには榻があって、髪の黒い、黄いろな顔をした男が、呼吸苦しそうにして左枕に寝ていた。主翁はこれが御病気だと云う伯爵の殿様だなと思った。その枕頭には二人の看護婦が椅子に腰をかけたなりに眠っていた。また榻の脚下になったほうには、絨緞の上に蒲団を敷いて五六人の男が坐っていたが、これも俯向いたり、後の壁に寄っかかったりして眠っていた。

田中貢太郎「黄灯」の一節。
たくさんカナが振ってあり、「榻」は「ねだい」、「主翁」は「ていしゅ」と読ませている。

主翁は書生と並んで立った。主翁は己をこんな処へ伴れて来てどうするつもりだろうと思って、そっと書生の顔を見た。主翁は怖れて眼前が眩むように思った。それは数月前に自動車に轢かれて惨死した山脇と云う書生の顔であった。書生の顔は正面に主翁の眼に映った。

「黄灯」はスリラーの類か。怖そう。

「おい豆腐屋、今晩は世話になった、おかげで俺の敵は打った、まだ片割れは二人残っているが、それは三月か四月の後だ、しかし、その時は、別にお前の手を借りなくても好いから、心配しなくって好い、では別れよう、別れの印に、それ、お前に見せてやるものがあるぞ」

左枕、右枕は、田中の他の作品にも出てくる。たんに左向きに寝るか、右向きかの表現らしい。
どんなわけで「左枕」が脳内リフレインしてたかは未解決。

2024.11.3 sun. url #詩

下から見た映像であるマッチ棒としぼんだ男の頭。
朱色のマッチ棒としぼんだマッチ棒。

その他さまざまな対比。
風船で膨らませたバレエダンサーが踊っている昼間のバレエダンサーと夜間のバレエダンサーの二組の映像。
バリシアの屋上で撮影され、膨らんだ男の頭。
自分自身を持つ三つの人形であるアンジュ。三体で一体。
二組のパリアス。
男の頭上で行われるボクシングと、それへの点火。

2024.11.2 sat. url #詩

真っ赤な罌粟が 笑ってる 罌粟が

真っ赤な罌粟が 肩を
真っ赤な罌粟が
母さん 赤い夕陽に
真っ赤な罌粟が 笑っ赤な罌粟が 赤な罌粟が
笑ってる

母さん 赤な罌粟が 笑っ赤い夕陽に
真っ赤な罌粟が 肩を
真ってまっ赤な罌粟が
真っ赤な罌粟が 赤な罌粟が 肩を
笑ってる
真っ赤な罌粟が
母さん 赤な罌粟が 母さん 赤い夕陽に

真っ赤な罌粟が 笑っ赤な罌粟が 笑っ赤な罌粟が
母さん 肩を
真っ赤な罌粟が 笑っ赤い夕陽に

2024.11.1 fri. url


住職と檀家? 住職というよりは胴元、檀家というよりは住所不定の博打打ち。
ともかく二人はツボの中をあらためてるところ。仕掛けはないよね。はい、ありません。て、それを保証する第三者はいないわけで。