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2018-07-14
戸川純が歴史の天使であること
「われわれは天使である」とベンヤミンが言っている。
では、誰がじっさいに天使なのか。
たとえば音楽家なら、戸川純は天使ではないか。



従軍慰安婦の歌として聴いた。
唱歌の「唱」が娼婦の「娼」を思わせるし。

知らない人に声をかけられて
ついていったら、娼婦にされてしまった
とても悲しい
悲しくて、つらい
だからわたしは、あの人の名を呼ぶの
好きあっていたわけではないし
ほんとうを言えば、知り合いでさえなかったし
ただ遠くからながめて
こんな人のお嫁さんになりたいと
でも、無理よね、わたしなんか、とてもあの人の
お嫁さんにはなれません
そう思っていたのだけれど
それでも、あの人の名を呼ぶの
わたしにも好きな人がいたんだって
いいえ、今も好きなんだって

ねえ、あの雲はどこへ行くの、この雨はいつ止むの
しあわせそうに、わたしがあの人に寄り添っているとして
そんなことを話しかけたりするの

ベンヤミンの言う「歴史の天使」がまだ消化できてないが、これまでの理解では「正史や通説に異を唱える者」といったところか。ただし、敗者の政治利用を専らとする者を天使とは言いたくない。もしかするとベンヤミンの論では敗者の政治利用を是とすることになるのかもしれないが、それについては別に考える。
ふつうは人権問題、社会問題、政治問題としてとらえる問題を、戸川純は個人の悲哀として(それも戸川自身の悲哀みたいに)受け止めて詞にした。告発ではなく、慰安として。あの人の名を呼ぶと、それだけで心が安らぐの。

元記事 - 従軍慰安婦の歌