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2018-11-04
マルクス兄弟のアナーキーを手がかりにカール・マルクスを超える
鹿島茂の『怪帝ナポレオン三世』(講談社)を読んだ。
階級のかす、くず、ごみ(「マルクスが浮浪者を憎んだこと」)としてマルクスが蔑視したルンペン・プロレタリアートを、この本は別の方向から切り捨てる。

マルクスやユゴーあるいはゾラは、ナポレオン三世の取り巻きを、ルンペン・プロレタリアートあがりのゴロツキ政治家の集団として描いたが、これは、彼らの頭の中に宿っただけの、実体を持たない虚像である。権威帝政期の大臣たちの多くは、七月王政下で、ギゾーないしはティエールと関係をもっていたオルレアン派の若手、しかも、氏も育ちもエリートの高級ブルジョワジーだったのだ。

『怪帝――』の途中で四方田犬彦の『マルクスの三つの顔』(亜紀書房)に寄り道。こちらは拾い読み。
ナポレオン三世やその第二帝政を論じる者が軽視あるいは無視したがるルンペン・プロレタリアートを、四方田は喜劇俳優のマルクス兄弟とその作品に重ねて再浮上させる。「カール」とあるのはカール・マルクスのこと。

マルクス兄弟が体現しているのは、(中略)悲劇と喜劇の終焉の後に荒唐無稽な不条理をこの地上にもたらすことである。加えて彼らは、カールが唾棄してやまなかった「怪しげな生計を営み、怪しげな素性をもつ、崩れきった道楽者」「浮浪者、元兵士、元懲役囚、徒刑場から逃げ出してきた苦役囚、ペテン師、香具師、たちん坊、スリ、手品師、博打打ち……」の一党を、スクリーンの上でみごとに演じてみせたばかりか、その本来の出自において文字通りルンペン・プロレタリアートであった。

「悲劇と喜劇の終焉の後に……」とあるのは、カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』冒頭の

ヘーゲルはどこかで述べている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度現れるものだと。一度目は悲劇として、二度目は茶番としてと、彼は付け加えるのを忘れたのだ。

を踏まえている。マルクス兄弟のアナーキーを手がかりに、カール・マルクスの世界観をなす二項対立――悲劇対笑劇やプロレタリアート対ブルジョワジー――を超える試み。『マルクスの三つの顔』はそういう意図の書か。