to top page
2018-09-14
マルクス、折口信夫、バクーニン、ブレヒト、四様の浮浪者観、とくにブレヒトの場合
ブレヒト『三文オペラ』の最初のト書き。

乞食は乞食をし、泥棒は泥棒をし、淫売は淫売をしている。
殺人物語の歌手は殺人物語を歌う。

猥雑な繁華街で、乞食、泥棒、淫売が、それぞれのすべきことをしている。
これらは、マルクスの言った「ルンペン・プロレタリア」、折口信夫の言った「ごろつき」と同じカテゴリーに入る者たち。
「殺人物語」はドイツ語のモリタート(Moritat)の訳で、犯罪者の行状などを歌う大道芸。その歌手ならばやはり同じカテゴリーに入る。
要するに登場人物は裏社会の者ばかり、というのが『三文オペラ』。
警視総監も主要人物のひとりだが、警吏が賤業であるかは措くとして、この戯曲の警視総監は故買屋にして乞食ビジネスの元締めであるビーチャムとも、犯罪者の首魁にしてみずからも殺人をいとわないマクヒィスとも付き合いがある。それも敵対関係ではなく、友人として。つまりは、警視総監もふくめて裏世界の物語。

マルクスがルンペン・プロレタリアを嫌悪したことは前に書いた。
- マルクスが浮浪者を憎んだこと

折口信夫のごろつき論も別に紹介した。
- 歴史はごろつき駆動
ごろつきに対する折口の態度はどっちつかず。共感はするが、行動をともにすることはできないといったところ。

無政府主義者のバクーニンは「革命が全て暴力的である必要はない」とするなど、マルクス主義者と異なる主張をしたが、とくにルンペン・プロレタリアに対する態度はマルクスと正反対で、彼らを革命の尖兵と見た。

バクーニンは「下層の人々」に注目し、貧困に苦しむ大勢の被搾取層、いわゆるルンペンプロレタリアートは「ブルジョワ文明による汚染をほとんど受けておらず」、ゆえに「社会革命の火蓋を切り、勝利へと導く」存在であると考えた。(ミハイル・バクーニン - Wikipedia

『三文オペラ』のブレヒトはどう考えていたか。
この戯曲に彼が自註して言うには、盗賊役の俳優は、ブルジョワ的現象として演じるべきである、と。
すなわち、ブルジョワこそが盗賊なのだから、そのことが明らかになるように、盗賊の役はブルジョワ的に演じるべしというのだが、表社会(資本主義社会)の喩えとしての裏社会という意味付けなどしなくても、この作品は成り立つ。欲望がむき出しの裏社会のほうがおもしろいし、書いていても楽しいし――ということでは、いけなかったのか。
このことは、ブレヒトがマルクスを学ぶ前に書いた『バール』と考え合わせると、いっそうはっきりする。
『バール』の主人公バールは、奪って、犯して、殺してと気のむくままに生き、あげくのはては野垂れ死ぬ。この野生児についてもブレヒトは、「その本質はブルジョアである」といった意味をあとになって与えているのだが、そんな再解釈が必要だったか。自由に生きたいという人間の――なによりも作者自身の――欲望を対象化した作品ということで足りていると思うのだが。