to top page
2019-09-03
以前には、文法と文法上の主語とが信じられ…
以前には、文法と文法上の主語とが信じられたと同じく、「霊魂」というものが信じられていた。「われ」は制約であり、「思う」は述語であり、制約されたものである、と言われた。――思うことは一つの活動であり、それには原因としての一つの主語が考えられなければならない。さて、驚くべき執拗さと狡智とをもって、この網から抜け出ることができないかどうかが試みられた。――もしかすると、その逆が真なのではないか。「思う」が制約で、「われ」が制約されたものなのではないか。従って、「われ」とは思うことそれ自体によって作られる一つの綜合なのではないか。 ――ニーチェ『善悪の彼岸』、木場深定訳

まず私(=魂)が存在して、しかる後その私が思惟するのではない。
逆である。まず思惟という出来事があり、それを一因として私が構成されるのだ、と。

関連記事:
真理とは一種の誤謬であること
思うとは、行為というより、出来事であること